近頃、神社仏閣で若い人を見かけることが多い。ひと昔前は、高齢者がワンサカいた場所に、
若い人が訪れるようになった。
うら若き女性がただ独り、境内を巡りながら、手を合わせている姿も珍しくない。
日本がバブル経済で浮かれていた頃、キメッキメの装いで夜明けまで踊り明かしていた女性たちの子の世代がこうなるのか、と世のコトワリを不思議に思う。
個人的には、どちらの青春も瑞々しい姿だとは思うが、しかし、祈りの姿は何物にも替えがたい美しさがある。これこそ、人が人としてあることの理(ことわり)の原点だと思う。
前置きはここまでにして、先日、友人からこんな話を聞いた。
人はいろんな目的で神社やお寺に参詣に行く。多くの人は、祈願が目的だろう。
えべっさんなら、商売繁盛に笹持ってこい、で商売の御利益のお願いに行く。
友人も人生の節目の神社に祈願に行ったそうだ。もう、数十年前のこと。
それは大学受験の合格祈願。
なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 【最強11神社】八幡/天神/稲荷/伊勢/出雲/春日/熊野/祗園/諏訪/白山/住吉の信仰系統【電子書籍】[ 島田裕巳 ] 価格:899円 |
ぼくの住む街、堺にも行基菩薩誕生地に【家原寺-えばらじ-】という文殊菩薩が御本尊の有名なお寺さんがある。文殊菩薩は智慧の仏様。受験シーズンになると受験生が合格祈願にやってくる。その賑わいは大変なものだ。
話が逸れた。友人の話。さて、友人は祈願の後、数校の大学を受験したが、すべて不合格だったそうだ。神頼みは叶わず。友人はふて腐れて、今後のことをボンヤリと考えながら、部屋で寝転んでいると、彼の父親がその姿を見て、こう言ったそうだ。
願が成就しなくても、祈願に行ったら報告とお礼に行く。
「お前、神社にお礼には行ったのか」と。友人はそれには何も応えることができなかった。不合格の原因はその神社にもある、と思っていた節もあっただろう。黙っている友人を見て、父親はさらに続けたそうだ。
「たとえ、不合格であったとしても、お礼の報告に行くのが人の道だ。結果は関係ない。きちんと後始末をして来なさい」
不合格でも神社にお礼に行くのか、とその時は思ったそうだ。友人の父親の言葉には大変深い示唆がある。十代ではなかなか気付くことはできないだろう。友人も最近になって、この父親の言葉の真意がわかってきたらしい。
後始末の大切さ。どんな状況においても、お礼を忘れてはならない。
個人的には神社仏閣は願をかけるのではなく、誓いをたてに行くべきだと思う。
そして、その誓いが成就したかしなかったかを報告する。成就が叶わなかったら、
またさらに誓いをたてればいい。そして、時には懺悔する。
いずれにしても、友人の父親の[後始末とお礼]の話は素晴らしい。
ぜひ、実践させていただきたいと思います。
神社に行っても神様に守られない人、行かなくても守られる人。【電子書籍】[ 岡田能正 ] 価格:1,232円 |